辰野町は、伊那谷の北端、日本列島のほぼ中心に位置し、古来より中部山岳地域における交通の要地であった。原始からの遺跡や遺物も各地で発掘され、縄文時代草創期(およそ1万年前)からの人々のくらしが確認されている。古代には朝廷直轄の御牧が平出・宮所・辰野・小野に設けられ、毎年都へ貢馬が送られていた。平安末期になると諏訪上下社の社領となり、諏訪社にゆかりの氏族が住みついて、その地名を姓として各方面に活躍した。国の重要文化財に指定されている上島の十一面観音立像造立の大檀那宮所氏もその一例である。戦国時代末期になると、小野七騎、ついで上伊那十三騎とよばれる地侍集団が形成され、町内の各所に館を構えて活動した。また天正19年(1591)には、伊那の毛利氏と筑摩の石川氏の領域争いによって小野郷が伊那と筑摩の2郡に分割されてしまった。
江戸時代は、雨沢の大沢川を境に、北は幕府領千村氏預り地の小野村、南は高遠領の上伊那郷として幕末まで続いた。この間、高遠領主は保科・鳥居・幕府・内藤と交代した。明治となって8年には、伊那富・朝日・三里・小野の4ヵ村が成立し、以後、分離合併が繰り返されて、明治11年に伊那富村・朝日村・川島村・小野村となった。昭和22年の町制施行で伊那富村が辰野町となり、30年朝日村、31年川島村、36年小野村との合併によって今日の辰野町となった。(辰野町町勢要覧抜粋)
江戸時代は、雨沢の大沢川を境に、北は幕府領千村氏預り地の小野村、南は高遠領の上伊那郷として幕末まで続いた。この間、高遠領主は保科・鳥居・幕府・内藤と交代した。明治となって8年には、伊那富・朝日・三里・小野の4ヵ村が成立し、以後、分離合併が繰り返されて、明治11年に伊那富村・朝日村・川島村・小野村となった。昭和22年の町制施行で伊那富村が辰野町となり、30年朝日村、31年川島村、36年小野村との合併によって今日の辰野町となった。(辰野町町勢要覧抜粋)